2010年9月14日火曜日

ソーシャルゲームの悪徳

CEDEC での GREE 田中社長の講演を契機に、ソーシャルゲームのマネタイズについてにわかに議論が行われている。
この問題は自分のテーマでもあるので少し書き残しておこう。

さて、ひとこと下流食いと言われているが、内実は複数の批判が見て取れる。
対象が違うのにどれも相手を「下流」と言うもんだから議論が分かりにくくなってしまう。

「下流」という言葉は近年の三浦展『下流社会』で認知されたと思う。
そこでの定義は、経済的には裕福とは言えないながらも、その生活に満足または諦観を抱き、より裕福・上層へ行こうという意思や努力の欠けている人々のことであった。
しかしこの意味で下流という言葉を用いている人は少ないように見受けられる。

まず一番最初の「下流食い」だが、単に経済面での社会的な下層を指しているようだ。
経済下層を食い物にするビジネスというわけだが、これには既に貧困ビジネスという用語がある。
住居借りられない人に生活保護をピンハネして割高なスペースを提供したり、その月暮らしの数万円をリボ払いの高金利で提供するなど。
最初の言及でグレーゾーン金利を例に挙げていることからも、この下層の意味で下流という言葉を使っているのであろう。

一方、ソーシャルゲームに対しては従来のゲーム好きからは鬱屈とした違和感がある。
「あんな(単純なものは)ゲームではない」という奴だ。
これが今回のフレームと結びついて表に出ている面も見逃せない。
ここでの下流とは経済面というよりは知的面、要するに「あんな単純なゲーム楽しむ奴らはバカ」という意識である。

同じく知的側面での下層という意味であるが、ゲームなんかに金を使うことそのものを愚かと捉える立場がある。さすがにこんな批判をする人は、話題だから言及しただけで、そもそもゲームには無関係・無関心という人が多い。

そしてもう一つ、下流というよりはパチンコとの類似性に反応した、射幸心の面から見た批判がある。
僕の立場もここである。


射幸心についてはまた別に書くとして、その上の三つの下流食いの議論をすすめておこう。
といっても下二つは特に構う必要は無いであろう。
他人が何を楽しんで何に金を費やすかを、横から倫理的批判をすることは自由主義の原理/愚行権に反する。
むしろここだけ反論されて、このソーシャルゲーム批判を片付けられてしまうだけの愚かな議論である。

一方で、一番最初の貧困ビジネスについては堪えるのか、きっちりと反論されている。
曰く一千万人プレーヤー全員が貧困なわけがない、大金を使うのはエスタブリッシュメント層だ、云々。
全部が貧困層という指摘ではなくて一部がそうであると言っているわけで、部分否定ではそもそも反論にはならない。
さすがに生保ピンハネのような生存権を奪うほどの悪徳ビジネスは無いとしても、
一千万人の中に、食うや食わずの生活の中で借金してケータイ代払って遊んでいる貧困層や、社会に寄生して生活保護で遊んでいるような層、努力を諦めてその場しのぎの安逸を求める「下流」な人々がいないかと言えばいるに決まっている。

彼らを食いものにするようなビジネスはやはり悪と言わざるを得ない。
しかしそういったプレーヤーを排除したところで彼らはパチンコへ流れるわけで、ソーシャルゲームはまだマシな遊びである。これはもう社会問題であって、業界に罪を負わせるのは潔癖にすぎる。
日々を過ごすに必要な楽しみを提供し、現状を改善できないほどの時間や金を奪わない程度の収益にとどめるならば、例え下流食いのビジネスとしても誇ってもいいのではないか。社会の暗闇だとしても、誰かが足を踏み入れなければいけない。

ソーシャルゲームで働く人々にはそういう気概を持ってもらいたい。
下流を食っているという事実からは目を逸らさず、社会的非難の中で慈愛の心を持ち、せめて幸福に暮らせるようなゲームを提供してほしい。

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